セメント協会の広報誌「セメント・コンクリート」6月号に、元宇部三菱セメント社長で三菱マテリアル顧問の森榮(もり・さかえ、1966年法卒)さんが登場。長崎県にある「軍艦島」との三度の出会いを語っている。
「軍艦島」は、長崎港から南西およそ19kmの洋上に浮かぶ周囲1.2kmの小さな島。正式名称は、長崎県西彼杵郡高島町端島であるが、夕暮れにかすむ頃はるか洋上から眺めると、その島影があたかも軍艦「土佐」に似て見えることから、いつしか「軍艦島」と呼ばれるようになった。この島は、三菱が明治時代から閉山まで80余年もの間、最高級原料炭を採掘してきた場所である。この島には、大正5年に日本初の鉄筋コンクリートで建設された高層アパート群が林立していて、全盛期には、5200人もの炭鉱マンとその家族が生活し、世界一人口密度の高い島としても有名であった。
1962年(昭和37年)年11月、森さんは東京水産大学の練習船「神鷹丸」に乗船して、3週間に及ぶ東シナ海漁業実習の帰路、長崎港に向かっていた。長崎港にあと1時間程で到着するという時に「軍艦島」の東側を航行、洋上から初めて見た高層アパート群が林立するその「偉容」に圧倒されたという。
その翌年、森さんは東京水産大学を卒業したが、すんなりとは就職せず紆余曲折を経た後、1966年(昭和41年)に神戸大学法学部を卒業、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社する。そこで二度目の出会いを迎えた。つまり、最初の勤務地が「軍艦島」の5km長崎よりの洋上にある三菱炭鉱の島・高島となったからである。結局、この高島で毎日のように「軍艦島」を眺めながら「労務屋」としての生活が15年近く続く。
三度目の出会いは、時代を一挙に30年近く飛び越える。2001年、森さんは、三菱マテリアル九州支店長として在任中に「軍艦島」と関係することになった。というのは「軍艦島」は、1974年に閉山後、無人島のまま30年近く推移してきた後、支店長として高島町との「譲渡交渉」に立ち会うことになったからである。
「軍艦島」はその後、平成の大合併により長崎市の所有地となっている。長崎市は「軍艦島」を観光の新しい「目玉」と位置付け、島の桟橋や見学通路を整備し、2009年4月「上陸解禁」に漕ぎ着けた。解禁後の半年間で予想を大幅に上回る3万4千人の観光客が訪れたという。「軍艦島」に林立する高層アパート群は、建設後90年の歳月を経ても、いまなお健在であり産業遺産としての役割を立派に果たしている。「換言すれば、それだけ日本のセメント・コンクリートの技術が世界的にも卓越している」と一文は結ばれていた。

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